1971年3月29日は北海道・石北本線の常紋信号場にいた。43年前の遠い昔でネガフィルムケースのメモが証拠になる。科学実験ではないが記録を残すことは大切だ。信号場開設は100年前の1914年。旅客扱いもする仮乗降場として時刻表の生田原―金華の間に掲載された。いま「常紋」の2文字はない。
冬はまさに極寒、信号場の寒暖計が氷点下20度以下を指していた記憶がある。ダイヤモンドダストが舞う。汗を吸ったマフラー代わりのタオルを大気にかざすと棒のように凍り付いた。空気が「キーン」と音をたてているようだ。大切なカメラを体温で温めた。
蒸気機関車D51がけん引する貨物列車が急な坂を上る。最後尾に後補機がつく「重連」、早足で競争すれば追い越せそうな速度である。
信号場の近くに常紋トンネルがある。「幽霊が出る」、係員に脅かされた。過酷な建設作業の犠牲になった労働者が壁に埋められている。真顔でそう言った。緊張し高まる心臓の鼓動を聞きながら500メートルのトンネルの闇を抜けた。
極寒ゆえの楽しみもある。札幌発の夜行急行「大雪6号」を早朝、生田原で降りる。夜明け前の冬空は闇より星明かりの部分のほうが多い。星が地上の雪を照らしほのかな明るさに包まれる。星と雪の白い世界に酪農農家の黄みがかった電球がともる。極寒の美しさ。その光景に、2度出会ったことはない。(O)