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戦争のある人生
海底特攻「伏龍」(1)勇名裏腹、潜水服と竹竿で敵艦へ

社会 | 神奈川新聞 | 2015年12月2日(水) 16:57

 戦争の時代に生きた人たちにとって、その記憶は終戦とともに途絶えたわけではない。むしろ戦後70年の生き方を規定さえした。陸海軍、疎開、引き揚げ。今も戦時と「地続き」の、いくつかの人生をたどる。


 10メートル程度の深さでも、海の中は光に乏しく薄暗かった。「たそがれのような感じでした。どんよりとして…」。終戦の直前、横須賀市の野比海岸で海軍が極秘裏に進めていた海底特攻「伏龍」の元隊員、門奈鷹一郎さん=同市=が昨年9月、85歳で亡くなった。経験者の一人として、断片的な情報しか残されていなかった「最後の特攻」の実態を伝えるべく、調査研究に後半生をささげた。

 伏龍。名前こそ勇ましいが、兵器としてはあまりに原始的だった。バケツ大の機雷を付けた竹ざおをささげ持って海底に待機し、敵艦が頭上を通過するのに合わせ船底めがけて体当たりするのだ。門奈さんが潜水訓練を行ったのは1945年7月半ばから終戦までの1カ月。同年秋と想定された米軍の上陸を、文字通り水際で退ける目的だった。

門奈さんが横須賀市立野比中学校に寄贈した伏龍隊員の模型

 浮力にあらがうため、総重量68キロもの潜水具に身を包んだ。3、4人の補助員に取り囲まれて足に鉛製の「わらじ」、背中に2本の酸素ボンベ、頭に鉄かぶとを装着。顔面を覆う「面ガラス」のねじがギリギリと締め付けられると「ああ、これで現世とお別れだ」と感じさせたという。

 真夏とはいえ海中は冷たい。潜水服の中に純毛のセーターを着込み、十数人乗りの小さな和船でペリー上陸碑の沖までこぎ出し、体を海に沈めた。底に足が着いたら命綱をモールス信号のように「長、短、短」のリズムで引っ張り、船上の仲間に合図する決まりだった。

 「海底ではうまく足が出せませんでした。徒競走のように体をぐーっと前に倒して、足で砂を蹴飛ばしてやっと歩きました」

 後に、砂浜から海に入る訓練も行った。今は海岸浸食で面影もないが、当時の野比海岸は白砂青松の美しい浜だったという。浮力のない地上では、68キロの重さがそのまま体にのしかかってくる。ただでさえ歩きにくい遠浅の浜を、何十メートルも歩かねばならなかった。

 慣れれば、海中の別世界に心引かれるひとときもあった。「好奇心が強いのか面ガラスの前で私の顔をじーっと見ている魚がいて面白いなあと思いました」。タコを捕って上がり、ゆでて食べたこともある。

 当然、危険な世界だった。貧弱な装備によって命を落とす若者がいた、とも伝わる。その実態は軍事機密として隠され、死傷者数をめぐる戦後の証言も「1カ月間に死者が数十人」から「死者はほとんど出なかった」まではっきりしない。門奈さんが伏龍について調べ始めたのは、その無念を晴らすためだった。

 人命と引き換えの体当たり攻撃は1941年12月8日の真珠湾攻撃の際に既に行われていた。栗原俊雄著「特攻-戦争と日本人」によると、このとき2人乗りの魚雷を積んだ特殊潜航艇5隻が米戦艦に突入、乗組員10人のうち9人が戦死した。

 大戦前にも32年の上海事変の際、中国国民党軍の陣地に向かって陸軍1等兵3人が爆弾を抱えて突入、爆死し「肉弾(爆弾)三勇士」とたたえられた。

 ただ、これらは「自発的」なものだったとされる。初めての組織的な特攻は、戦局が悪化した44年10月、海軍航空隊がフィリピン戦線で実行し、陸軍も続いた。

ついえた軍国少年の「夢」

 「模型飛行機を作るのが好きで、今の北京の天安門広場でゴム動力のグライダーをずいぶん飛ばしたものです」。門奈さんは、少年時代をそう述懐していた。

 鉄道員だった父は国鉄から当時の日本の植民地、朝鮮や満州(現中国東北部)を転々とする生活を送っていた。門奈さんは1928年、京城(現ソウル)で生まれ、中国北京に育った。

 将来は軍人になると決めていた。小中学校で教師に問われると、決まって「立派な軍人となって国家と天皇陛下のために一身をささげるつもりです」と、反射的に答えたという。

 「日本は神国で負けることはない、神風が吹いて天地がひっくり返る、といい年して本気で考えていましたね」

「伏龍」について語った生前の門奈鷹一郎さん=2011年、横須賀市の自宅

 周囲にいた日本軍人は陸軍ばかりだった。カーキ色の軍服に身を包み、革靴と汗のにおいが漂う兵隊の姿は「幼心にもやぼったく映りました」。憧れは、写真や絵で見た海軍飛行予科練習生(予科練)の七つボタンの制服。「格好良くて女性にもてそう、という気持ちもありましてね」

 日米開戦から2年半が経過した1944年、15歳の門奈さんは焦っていた。「まごまごしていると、この戦争は終わってしまう」と。

 戦況の劣勢は漏れ聞いても、敗北の懸念は頭に浮かばなかった。早く軍隊の一員に加わり「学校のみんなに追い付き、追い越したい」との念が勝っていた。中1の時に猩紅(しょうこう)熱が元で腎臓炎を患い、1年間休学したことが、前のめりの気持ちを一層高ぶらせた。

 中3修了まで待てば進級の早い甲種予科練の受験資格が得られたのに、半年が待てなかった。中3の1学期に、既に受験資格がある乙種を志願。同年6月、三重海軍航空隊に入隊した。

 生まれて初めて、勇んで踏み入れた「内地」は、すさんでいた。

 「私たちがいた外地にはそれなりに物資がありましたが、内地に来たとたん、無い無い尽くしでした」。その上、翌45年春になると予科練教育が中断し、三重県の志摩半島で特攻艇「震洋」の格納陣地造りに動員された。

 飛行機で大空を舞う夢はついえ、ひたすら穴掘りをやらされた。もう航空燃料も「赤とんぼ」と呼ばれた複葉の練習機さえ、ほとんど残っていないのだった。

 海底で自爆する伏龍の考案者は、海軍で真珠湾攻撃の作戦を練り、連合艦隊司令長官山本五十六の腹心といわれた黒島亀人軍令部第2部長(1893~1965年)とされる。戦備担当として1944年以降、グライダー「桜花」やモーターボート「震洋」、人間魚雷「回天」など、爆弾を積んだ体当たり兵器を次々に開発した。

 特攻はよく知られる航空機にとどまらず、水上や陸上でも行われた。その極致が45年4月の戦艦大和による「沖縄水上特攻」で、米軍の沖縄上陸に合わせ、艦を沖縄の海岸に乗り上げ攻撃する計画だった。出撃命令は、横浜市港北区の慶大日吉キャンパスにあった海軍地下壕(ごう)から出された。

 
 

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