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戦争のある人生
満鉄の子(2)ソ連兵におびえる日々 父は血まみれの服で

社会 | 神奈川新聞 | 2015年12月9日(水) 11:53

 1945年8月7日に御殿場線の山北駅周辺が空襲に遭ったニュースは、満州にいた井上城司さん=開成町=の耳にも届いた。山北町出身の母の驚きようを鮮明に覚えている。

 「エーッと言ってラジオにしがみついていました」。しかし、空襲のなかった「満州国」チチハル育ちの南満州鉄道(満鉄)社員の子息は言う。苦労は全て、戦争が終わってから始まった、と。

 8月9日未明にソ連が侵攻してきたことは、ソ満国境の満州里駅から満鉄社宅にいた井上さん一家にいち早く伝えられた。といって、港町大連から千キロも離れた内陸の住民に逃げるすべなどなく、社宅の隣組同士で声を掛け合うほかなかった。守ってくれるはずの関東軍は、国民を置いて真っ先に退却していた。

 ソ連軍は1週間ほどで街に姿を現した。女性は暴行から逃れるため髪を切り、胸をさらしで絞め付け、顔に墨を塗って男装した。それでもソ連兵は「女はいないか」と押し入り、金品を奪うのだった。

井上城司さんの父が勤務した頃のチチハル機関区(井上さん提供)

 12戸が長屋のように連なった社宅の住人は、押し入れの中の壁に穴を開け、万一の際に穴を伝って隣家に避難した。

 それでもある日、井上さんが姉一人を残して水くみに出かけている間、折あしくソ連兵が来た。ガンガンガンと戸をたたく音、2階の窓から顔を出して泣く姉。近所の男性が「飛び降りろ」と受け止めてくれ、事なきを得た。

 既に食べ物も日用品も手に入らなかった。食事はコーリャンやアワを煮たおかゆ。それも、即席の市場で現地の中国人と、着物などと引き換えに手に入れたものだった。「覚えてるなあ、おふくろのいいかげんな中国語を。まいまい(買って)、いーばいせん(100円)と。それで通じてるんだね」。庶民同士のたくましさが通じ合い、飢えをしのぐことができた。

 支配者の状況は刻々と変わった。ソ連軍が去った後は蒋介石率いる国民党軍、次が共産党軍。ある晩、機関銃の音が街中に鳴り響いた。国共内戦が激化していた。

 終戦時、井上さんの父はチチハルからさらに400キロ内陸に入ったハイラルの鉄道管理所に単身赴任していた。ソ満国境まで100キロという重要地区への大栄転だった。

 その父が9月に入り、所々に血の付いたぼろぼろの服をまとって帰ってきた。母は優しく背中をさすった。

 ハイラルの所属は、沿線の治安を維持する「愛路班」。戦後、井上さんは父の名が名簿上に「管理所職員」とだけ記されていたと知った。「秘密だったのでしょう、どんな仕事をしていたのか、何も言いませんでしたから」

 中国大陸で日本は、鉄道沿線の治安維持を目的とした「愛路工作」を軍の関与で展開した。1933年、満鉄を標的にした抗日ゲリラに備え関東軍と満鉄が開始したのが端緒だった。高橋泰隆著「日本植民地鉄道史論」は「点と線の支配」といわれた日本の中国支配にとって、鉄道守備の意義は大きかったと解説する。

 日中戦争期の華中を題材にした大野絢也の論文「日本占領下の華中における交通網支配の実相について-華中鉄道を中心に-」(第21回日中戦争史研究会報告)は、戦争拡大に伴う人員不足を背景に、いずれは中国人に鉄道守備を担わせる狙いがあったと指摘。「一人愛路万民幸福」の標語をはじめ歌、映画など多様な媒体で沿線の中国人の懐柔を試みた。

引き揚げの労苦、はぐれかけた

チチハル機関区庶務主任時代の父井上久雄さん(井上城司さん提供)

 引き揚げの機会はなかなかやってこなかった。

 やがて零下20度、30度になる冬になった。薪はニレの木の枝を乾燥させればよかったが、夜間の暖を取るためには石炭が要る。社宅近くの軍倉庫にごっそりあったが、そのころは中国共産党軍が街を制圧していた。

 「朝早く、子どもがかっ払いに行くんです。リュックサックを背負って鉄条網を破って」。大人が行けば見張りの兵に撃たれるが、子どもは大目に見られていた。小学生だった井上さんは重要な「働き手」だった。兄と2人で行けば2、3日分にはなった。

 ある時、ズドンと銃声がした。石炭を盗んだのか、大人が撃たれた。後で見に行くと3、4人の兵士が穴を掘って遺体をごろりと転がしているところだった。

 そのころの井上さんにとって、死は既に身近だった。はしかが大流行し、社宅の同じ棟に40人はいた子どもが十数人に減った。

 「かわいそうだけれども、広い野っぱらに埋めたんだね。後に火葬を命じられ、枕木を組んだやぐらで遺体を燃やしていました。強烈なにおいで…」

 井上さんが一家6人でチチハルを後にしたのは1946年9月13日。最後の引き揚げ列車という話だった。

 途中、ハルビンと長春の間を流れる松花江の手前で列車を降ろされた。内戦のさなかにあった共産党、国民党両軍の勢力圏の境界がここにあった。

 船で川を渡る、という時に弟が高熱を出した。みるみる衰弱する幼児の姿を、引き揚げ者は誰一人気にとめず、待ってもくれなかった。「父は置いていこうとしましたが、母はそれなら私も残ると言い張りました」。父は荷物を捨てて弟を背負った。

 やがて意識を取り戻した弟とともに、屋根のない石炭貨車などで幾夜も過ごし、遼東湾の葫蘆島(ころとう)から米艦に乗り込んだのは10月20日。3日後に長崎の佐世保に着いた。

 井上さん自身、途中駅で用を足している間に列車が動き始め、危うく取り残されかけた。「でも“誇り高き満鉄社員の子”として『本籍地は神奈川県足柄上郡吉田島村何々番地』とたたき込まれていましたから。はぐれたらそう言えと」。初めてたどり着いた「故郷」の酒匂川は、悠々と流れる大陸の川とは違い、早瀬が音を立てていた。

 1981年6月、井上さんは満鉄関係者の訪中団の一員として35年ぶりにチチハルの土を踏んだ。わずか3カ月前に他界した父の遺骨の一部を、頼んで機関区の一隅に埋めてもらった。満鉄時代、父の下で働いたという中国人の鉄道マンから後に届いた手紙には「深厚的友情」とあった。

 日本の敗戦とともに「満州国」は崩壊したが、満鉄の列車は止まらなかった。加藤聖文著「満鉄全史」によると、関東軍とソ連軍の会談後に「満鉄従業員ハ皆現職ニ留マレ」との指示が出され、1945年9月30日に満鉄が法的に解散した後も社員は引き揚げ輸送に従事。46年7月からは国民党による「留用」も行われた。

 「満州国」の東端、ソ満国境に近い東寧駅の電話交換手だった小原定子の手記「戦火の最終列車」は、ソ連侵攻直後に住民らを乗せ列車を走らせた社員の姿を描いた。「避難列車を安全地帯まで運行せねばならぬと、鉄道人の血が躍る」。ソ連軍の爆撃で、命を落とした鉄道員も多い。元満鉄職員の荒巻繁之丞著「鉄路のさけび」にも「われわれ鉄道員は、現在位置に留(とど)まり(略)運輸の確保に懸命の努力」をしたとある。

 
 

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