大正10年生まれ、99歳。小田原市の市川タミ子さんは、今も毎日のように畑に出る。ジャガイモ、タマネギ、トウモロコシ、ソラマメ、ニンジン…。四季の移ろいを肌で感じながら、富士を望む足柄平野を耕す。だが、自然と語らう場だったはずの農地が「戦場」に、農家が「特攻隊」に例えられた時代があった。軍や国民の食糧供給源として、タミ子さんの田畑は戦争の一部に組み込まれた。
姉妹3人の美談「お米の供出」
「お米の供出美談」の見出しが、1943年3月18日付の神奈川新聞に躍った。「(足柄)下郡豊川村桑原奥津たみさん」が米を「割当て以上に供出」した、という話題だ。奥津はタミ子さんの旧姓で、豊川村は現在の小田原市東部に当たる。
「祖母と病父の世話しながら一町六反歩の米麦蔬菜(そさい)田畑耕作し外に梨園二反歩栽培」。1町6反といえば約1.6ヘクタールで、横浜スタジアムよりも広い。父はリウマチのため農作業ができず、弟はまだ学校に通っていた。
タミ子さんは2人の妹とともに、3人だけで広大な耕地に取り組んだ。
この「美談」は同日の他紙も一斉に取り上げた。「娘三人がつちと腕を組んで増産と供出に赤誠報国の実をあげてゐる」(朝日新聞)「農村女性の範」(毎日新聞)と、いずれも顔写真付きの記事である。「増産乙女」と形容した朝日新聞が最も詳しく、供出したのは割り当てより10俵も多い83俵だったという。1俵は60キロ、83俵は約5トン。
「残りはなかった」とタミ子さんは言う。自家用の米はほとんど残らなかった、という意味だ。「ふるいで振るった残米。あとはすいとんを食べたりね」。米粒を何度もふるいに掛け、それでも振るい落とされた小さな粒、割れた粒、ほとんど粉のようなものだけが、自分たちの米だった。
米俵に埋もれた家「必勝の信念で」
そのころの米作りは大部分を人の力によっていた。馬や牛を引いて田起こしや代かきをし、苗を手植えした。刈り入れも脱穀も手作業。しかも二毛作で、10月に稲刈りを終えると休む間もなく、同じ所に麦を植えた。翌年の5月に収穫、6月に田植え…。
「仕事は誰にも負けなかった。よくやったよ」と振り返る。
幼少期から家の手伝いは日常だった。風の冷たい時季に妹をおぶって麦踏み。農作業の合間には、父のために一升どっくりを提げて酒を買いにも行った。子どもには重く、帰り道はとっくりの底が地面に着いて難渋したという。
戦争が始まると男性が戦地や軍需産業に取られ、農村はより厳しくなった。「(男手を)頼りたくたって、いないんだもん」
収穫した作物には、そうした苦労、言い換えれば人生の一端が刻まれている。83俵の供出米をトラックで運び出す日、自宅は米俵に埋もれた。タミ子さんはどんな気持ちでそれらを見送ったのか。「物置から門のところまで、むしろを敷いて。俵を縦にしなければ並べきれなくて…」。立てた俵が背丈より高かったのが印象的だったという。
前掲の本紙記事は「私達(わたしたち)だけが満足するのは相済まぬ、代用食も結構だ」というタミ子さんの談話を添え「必勝の信念で娘盛りの三人がなりふりかまはずモンペ姿で食糧増産に挺身(ていしん)中」と書き立てた。確かに当時、10俵も多く米を供出する行為は名誉だった。だが、引き換えに「増産乙女」は、残米を大切に食べて空腹をしのいだのだった。
農民も「特攻隊の魂」で
軍隊の糧秣(りょうまつ)や国民への配給に充てるため、戦時中、農家は収量に応じて米を公定価格で国に売ることが義務付けられていた。これが「供出」だ。1942年に制定された食糧管理法によって生産、流通、消費の国家管理が確立した。
引き金となったのが、西日本と日本統治下の朝鮮半島を襲った39年の大干ばつだったという。京都産業大の並松信久教授の論文「戦時体制下の食糧政策と統制・管理の課題」が指摘している。それまで供給過剰でさえあった米穀が以降は一転して不足し、輸入を必要とする状況に陥った。
所管の農林省をはじめ、消費者の統制に乗り出したい内務省、さらに「外貨を軍事物資の調達以外に支出したくない」(同論文)陸軍の思惑が重なり、40年に米穀の流通統制、41年には東京、横浜など六大都市における配給制の導入と、食糧の戦時体制が築かれた。
米穀の輸入は41年の日米開戦後も続けられたが、戦局の悪化に伴い「東南アジアからの外米輸入は輸送船舶の減少によって、年々先細りを余儀なくされた」(同)。輸送船が次々に沈められたからだ。一般男子が1日330グラム、女子は300グラムとされた米の配給は、ほどなく破綻した。
農家の供出量は収穫高に応じて課された。一定量を自家保有米としてキープすることも許されたが、やがてそれも供出対象になった。
市川タミ子さんのケースは、例えば県農業会が広告で「吾等(われら)農民も特攻隊勇士の魂を以(もっ)て米供出の完遂に」(44年12月8日付本紙)と訴えた状況にあって、報国精神の模範だった。
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